禁錮3日目

 朝6時起床。熟睡した。ゼッコーチョーだ。晴れ。今日から“本断食”。
 
 今日で入所三日目だ。ここでの生活にも慣れた。体調もバッチリである。私は順応性・適応力には自信があるのだ。私は若い頃、自転車で放浪の旅に出ていた。どんなところで野宿しても熟睡できる。ホームレスになっても元気で生きていける自信がある。「経験はパワー」だ。今回の断食経験で私のパワーは倍増する。
 
 昨日の夕方、静座に参加した(参加するかしないかは自由になっている)。参加者は10名。建物の部屋数からいって収容人員は数十名はあるはずだが、少ない。ここは不人気なのだろう。ガラガラだ。それでも若い女性が3名いた。ダイエットなのだろうか。部屋がみすぼらしいので若い娘には気の毒な気がする。
 
 静座の時間は般若心経を三回唱える。私は般若心経は暗唱できるのでどうってことはないが、腹が減っているので息が続かない。
 
 般若心経を唱えるからといって宗教色はない。まったく何もしないでは格好がつかないので仕方なくやっているようなところがある。
 
 私はここを気に入った。リピーターになりそうである。部屋がみすぼらしいことに最初は愕然としたが、すぐに慣れる。なによりも拘束されないのがよい。ほったらかしである。私にとっては、放っといてもらうのが一番ありがたい。
 
 最近は過剰なサービスが氾濫している。断食道場でも毎日温泉に入れるとか、特性ジュースを飲ませるとか、ヨガのレッスンがあるとか、そんなものは過剰サービスである。若い女性を対象のウケ狙いだ。断食によけいなサービスは煩わしいだけだ。
 
 ここは建物と部屋が刑務所に似ている(私は刑務所に入ったことがないので推測だが)。ここでの生活に慣れれば刑務所も怖くはない。毎日三度のメシがでるだけ刑務所の方がマシかも知れない。刑務所が怖くなくなったら、もう俺は鬼に金棒だ。
 
 昼、庭園兼展望台でベンチに座る。暖かい日だ。今日もウグイスが満開の桜で鳴いている。下界を見下ろす。風がそよぎ、桜の花びらが舞う。いい気分だ。贅沢この上ない。
 
 下界の者どもよ、今日もあくせく働いているのだな。何のために働いているのか分かっているのか?食うためだろ。ここに来てみろ。人は食わなくても生きていけるということが分かる。それが分かればあくせく働くことはないのだ。人は“暇つぶし”、“退屈しのぎ”で働くのである。たいしたことをやっているわけではない。だから頑張るな。あくせくするな。何もしなくても人生は暮れていくのだ。“人生の意義”など見つけようとするな。生きているだけで奇跡なのだから。
 
 こう思いながら下界を見ていた。内蔵が完璧にリラックスしている感じがする。脳はまだリラックスしていない。